大判例

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東京高等裁判所 昭和49年(ネ)350号 判決

控訴人

山根小夜子

右訴訟代理人

須藤善雄

外一名

被控訴人

戸村フミ

被控訴人

戸村美枝子

被控訴人

武内卓

被控訴人

中島修

右四名訴訟代理人

小島将利

外一名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実《省略》

理由

一賃貸借の成立について

控訴人が昭和四五年三月一八日被控訴人フミに対し本件建物甲部分を賃料一か月金二万五、〇〇〇円、毎月二五日限り翌月分持参支払の約定で賃貸したこと、控訴人が昭和四四年一一月二三日被控訴人武内に対し本件建物乙部分を賃料一か月金一万六、五〇〇円、毎月二五日限り翌月分持参支払の約定で賃貸したこと、控訴人が昭和四四年一〇月一三日被控訴人中島に対し本件建物丙部分を賃料一か月金一万五、〇〇〇円、毎月二五日限り翌月分持参支払の約定で賃貸したことは、各当事者間においてそれぞれ争いがない。

二賃料不払による解除について

1  被控訴人フミ、同武内が昭和四六年一月分から、同中島が昭和四五年一二月分からその賃料を支払わないため、控訴人が昭和四六年五月一日到達の内容証明郵便で被控訴人武内に対し、昭和四六年一月分から同年五月分までの延滞賃料金八万二、五〇〇円を五日以内に支払うよう催告し、右期限内に支払わないときは本件建物乙部分の賃貸借を解除する旨意思表示したこと、控訴人が同年五月三日到達の内容証明郵便で被控訴人中島に対し、昭和四五年一二月分から昭和四六年五月分までの延滞賃料金九万円を五日以内に支払うよう催告し、右期限内にその支払をしないときは本件建物丙部分の賃貸借を解除する旨意思表示したことは各当事者間に争いがない。〈証拠〉を総合すると、控訴人が昭和四六年五月一九日本件建物甲部分で直接口頭で被控訴人フミに対し、同年一月分から同年五月分までの延滞賃料金一二万五、〇〇〇円を五日以内に支払うよう催告し、その期限内に支払をしないときは本件建物甲部分の賃貸借を解除する旨意思表示したこと、被控訴人フミ、同武内、同中島(以下武内らと総称する)が期限を徒過したことが認められる。

2  被控訴人武内ら及び被控訴人美枝子は昭和四六年一月ころ、被控訴人武内らが控訴人に対し、排水ポンプ取替等に関し取得した各金六万八、三一三円宛の求償債権と延滞賃料債務及び将来支払うべき賃料債務の一部とを対当額で相殺する旨の意思表示をしたから、延滞賃料債務の各一部が消滅したと主張する。

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

(1)  被控訴人中島は昭和四一年一〇月一三日本件建物(原判決目録記載の地下一階付三階建建物)の前所有者植木瞳(以下植木という。但し、実質上の所有関係は後記三3認定のとおり)から本件建物丙部分を賃借したが、当時まだ建築後間もないのに本件建物地階全体に約1.5メートルの浸水があり(間もなくこれを汲み出して使用可能となつた)、被控訴人武内は同年一一月二二日ころ植木から本件建物乙部分を賃借したが、当時、じめじめとしており、時折地階全体に若干の浸水があつた。

(2)  控訴人が昭和四二年三月一五日植木から本件建物を買受けその所有権を取得し、賃貸人の地位を承継した(その後控訴人と被控訴人中島、同武内との間の賃貸借は更新された。また、被控訴人フミは控訴人が本件建物の所有権を取得した後である昭和四二年三月一八日控訴人から新らたに本件建物甲部分を賃借したが、その後更新された。前記一の各契約は右の更新された契約である。)後も、何回か地階に浸水があつたが、昭和四四年一二月ころ浸水が甚しく、その原因が排水ポンプ(本件建物地階にある便所の汚水汚物及び台所の雑排水を貯溜する汚水槽から右汚水を下水道管に排出する役割を果していた)にあるとみられたため、控訴人がその費用を負担し(但し、被控訴人武内については、控訴人が同被控訴人負担金分と称して、被控訴人武内がそのころ有していた債権と相殺され支払わされた)、株式会社足立寅市商会に請負わせて排水ポンプ(出力二五〇W、揚程五m、揚水量0.12m3/m)を取替設置する工事をした。その後暫くは浸水がなかつたが、再び浸水が始まり、昭和四五年一二月一一日にはその程度が甚しく、本件建物地階廊下部分に約三、四センチメートルの浸水があり、営業不能となつた。そこで、控訴人の依頼により株式会社足立寅市商会の係員山下武男が来て調べたが、排水ポンプは一応稼働しているので異常はないものと考え、それ以上浸水原因を究明せず帰つてしまつた。しかも、控訴人は「先に排水ポンプは新しく取替えたのでそこから漏水する筈がない。被控訴人らが野菜屑等を流し、使い方が荒い為に溢水するものであると思う。」旨述べて、被控訴人武内らの要求する修繕をしなかつた。しかし、依然として浸水がやまないので、被控訴人武内らはやむをえず同年同月同日他の水道工事請負業株式会社秋葉商会(以下秋葉商会という)に、汚水汲出、下水づまり修理工事を請負わせ、その代金一万円を支払つた。その後もなお浸水が続くので、被控訴人武内らが昭和四六年一月七日他の水道工事業者である金子商会こと金子堅太郎(以下金子商会という)に浸水原因の調査をさせたところ、既設の前記排水ポンプは通常の浄化槽に使用するもので性能が低く、台所からの排水程度であれば十分その排水能力があるが、この地階汚槽水の汚水を地上近くに敷設された下水道管まで汲上げ、排水するには、その能力が不足し、十分に排出されないうちに更に汚水が汚水槽に流入して溢水し、これが本件建物甲、乙、丙各部分などに浸水したものであり、その修繕のためには、馬力が既設のものの約八倍の二馬力のモーターをもつ排水ポンプに取替え、配管も従前のものよりかなり口径の大きなものを敷設する必要があることがわかつた。しかし、被控訴人武内らは工事が基本的な建物の構造に及ぶところから、そのころ控訴人に対しその修繕要求をするとともに、さらに慎重を期して同年同月一九日秋葉商会にその原因調査及び修繕工事見積りをさせたところ、浸水原因は金子商会のいうのと同一で、その工事見積りは一七万一、五〇〇円であつた、被控訴人武内らはそのころ再三にわたり控訴人に対し、右原因調査結果に基づく排水ポンプ取替等の修繕工事を要求したが、控訴人は言を左右にしてこれに応じなかつた。地階の浸水はこのころ三日に一度位の割合で続き、各店舗ともその都度バケツで二、三杯程汲み出していたが、同年一月二五日にはその程度が甚しく、約三〇センチメートルも浸水したため、被控訴人武内らが第一清運株式会社に汚水汲上げ、汚水槽清掃工事を請負わせその代金八、〇〇〇円を支払つた。被控訴人武内らは控訴人が修繕をしないので、やむなく同年二月中旬から下旬にかけてのころにいたり金子商会に排水ポンプ取替等工事を請負わせ、その代金一三万五、〇〇〇円を支払い、これに伴う電気工事をそのころ昭栄電機に請負わせその代金三万九、九四〇円を支払つた。右各工事に要した費用は、被控訴人武内、同中島、同フミが各平等の割合でそれぞれ一時立替えることとした。

(3)  控訴人と被控訴人武内らとの賃貸借には、各契約書上に「共用部分の設備関係に要する修繕費は使用坪数により賃借人の負担とする。」旨の定めがあるが、右条項は被控訴人武内、同中島については従前の賃貸人植木との各賃貸借契約書の文言をそのまま移記したものであるところ、植木が賃貸人であつた当時は各浸水毎の排水工事に関する費用は一切植木が負担していた。また、被控訴人武内らは、各条項は地階廊下など共同部分の電灯取替費用程度は賃借人らの負担であり、本件建物の基本的な設備関係は賃貸人の負担であると理解して来た。そして、一般に、ビルの一部の賃貸借に関する慣行も、いわゆる共益費は各賃借人の負担であるが、それを越えた建物の基本的設備に関する費用は、賃貸人である建物所有者の負担となつている。

(4)  被控訴人武内らは共同で(被控訴人フミ、同中島については被控訴人武内が代理して)昭和四六年二月下旬ころ控訴人に対し、口頭で、前記(2)の排水ポンプ取替等工事代金支払による各求償債権金六万八、三一三円宛と、被控訴人武内らの控訴人に対し負担する従前の延滞賃料及び将来負担する賃料の一部の合計額とを対当額をもつて相殺する旨の意思表示をした。

以上のとおり認定することができる。右認定に反する〈証拠〉中、地階の浸水は被控訴人武内らの水道使用方法が悪いことに基づく旨述べる部分は〈証拠〉に照らしにわかに信用できず、排水ポンプ取替等工事代金は賃借人が負担する約定である旨述べる部分は、控訴人が昭和四四年一二月に排水ポンプを取替えたとき、少くとも被控訴人中島、同フミについてはその負担金の請求をせず自己の負担としていること、本件建物全体の給水ポンプの取替については控訴人がその費用の全額を負担していることからみて、にわかに信用できない。また、右認定に反し、被控訴人武内らによる取替前の排水ポンプの性能不良が浸水原因ではない旨述べる原審証人の証言は、その根拠に乏しくにわかに信用できない。他に前記認定を左右する証拠はない。また、被控訴人武内らが排水ポンプ取替等工事代金、排水工事費用等として支払つた総額が金一九万二、九四〇円(ことに漏水汲上げ修理代金一万八、〇〇円)を越えて被控訴人ら主張の金二〇万四、九四〇円(同上金三万円)であることを認められる的確な証拠はない。

ところで、堅固な建物の地階の室の賃貸借について、共同部分の設備関係に要する修繕費用は賃借面積に応じ各賃借人の負担とする旨の約定がある場合においても、地階に設置された便所の汚水汚物及び台所の雑排水を貯溜する汚水槽から汚水を下水道管に排出する役割を果す排水ポンプの瑕疵による取替等の工事費用、右瑕疵に基因する浸水の汲上等の費用は、通常、賃貸人(建物所有者である場合はなおさら)が負担すべき費用であつて、賃借人が負担することを要しないものと解するのが相当である。思うに、ビルの地階はその構造上往々にして賃借部分である各室や共用部分に浸水することがありうるので、賃貸人は、賃借人が賃借部分である各室を契約または目的物の性質によつて定まつた用法に従い十分に利用することのできるよう地階の状態を浸水から防止するため万全の措置を講ずるべきであり、浸水があつたときはこれを排水し、浸水の原因が排水ポンプの性能不全に基づくときはこれを取替える修繕義務を負うからである。そして、右費用は、特段の事情がない限り目的物を使用収益するのに適当な状態に保存維持するに必要な費用であるとすべきであるから、賃借人がこれを支出したときは、賃貸人は直ちにこれを賃借人に対して償還すべきである。本件において、前記認定事実によると、控訴人と被控訴人武内らとの間には前認定のような修繕費用の約定があるけれども、前記説示により、賃借の目的物である本件建物甲、乙、丙各部分及び共用部分の浸水原因となつた排水ポンプ取替等工事費用、浸水の汲上げ費用は賃貸人である控訴人が負担すべきものであり、賃借人である被控訴人武内らの負担すべきものではない。被控訴人武内らは前記認定のようにそれらの費用として金一九万二、九四〇円を支払つたから、被控訴人武内、同中島、同フミはそれぞれ控訴人に対し各人の立替支払つた金六万四、三一三円宛の償還債権を取得したもので、前記認定(4)のように、被控訴人武内らが控訴人に対しこの償還債権をもつて延滞賃料等と相殺した結果、被控訴人フミについては、昭和四六年一月、二月分と同年三月分のうち金一万四、三一三円相当分の被控訴人武内については同年一月分ないし三月分と同年四月分のうち金一万四、八一三円相当分の、被控訴人中島については、昭和四五年一二月分ないし同四六年三月分と同年四月分のうち金四、三一三円相当分の各延滞賃料及び将来の賃料債務の一部が消滅したこととなる。被控訴人武内らが相殺の意思表示をした昭和四六年二月下旬ころには、少なくとも同年四月分以降の賃料はいまだ具体的に発生せず、且つ履行期に達してもいなかつたことが明らかであるが、賃貸借のような継続的契約関係において、客観的にみて契約の終了すべき事由が存せず、賃料債権が逐月発生し、且つ履行期を迎えることがかなり確実であると認められる場合において、賃借人が賃貸人に対して有する債権をもつて賃貸人の有する賃料債権を相殺しようとするとき、発生し、履行期の到来することの確実な基礎を有している将来の何か月分かの賃料債権を受働債権として捉え、その期限の利益を放棄して相殺することは法律上許容すべきものと解する。したがつて、前記1のように、控訴人が被控訴人武内らに対してした各賃料支払催告は、すでに相殺により支払済となつた前記各賃料の支払催告をも含み、それを除く部分のみでは過大催告となり、そのようになつたのは前記相殺に基づくところ、控訴人は右相殺の自働債権である排水ポンプ取替等工事費用等の償還債権を争つており、その催告額の全額でなければ受領しない意思であつたことは前記認定の各事実からみて明らかであるから、右催告は無効であり、控訴人のした各条件付賃貸借解除の意思表示もまた無効であるというのを妨げない。

被控訴人らのこの点の主張は理由があり、控訴人の賃料不払による各賃貸借解除の主張は失当に帰する。

三無断転貸による解除について〈以下、省略〉

(蕪山厳 高木積夫 堂薗守正)

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